日本とルーマニアの文化交流を通じて友好親善の促進に貢献する

ルーマニア紀行

「ルーマニアからの便り」 住谷春也

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 住谷です。お変わりありませんか。             
先日、帰国しました。さっそく中越沖地震で、ここは日本だと知らされました。
前橋は震度3で、書棚の下に座っていたので本が落ちるかなと思った程度ですみましたが柏崎の方のお人たちは本当にお気の毒です。

 留守にしていて、年金問題のことはほとんど知らなかったのですが、話を聞いて、賞与の返上だかカットだかで責任問題すませたつもりというので、これにも驚きました。
江戸時代なら勘定奉行以下直接関わりのものは切腹、老中も退任でしょう。

 今日は、私が騎士に叙せられたお話です。
中世のテンプル騎士団とか、マルタ騎士団、ばら十字架騎士団などは有名です。
二つの世界大戦の実相である、とのドグマを述べる人もいました。

 ところで、ルーマニアのヴランチャ県が昨年、「ミオリッツァ」騎士団 ORDINUL CAVALERILOR "MIORITA" というものを創設、今年5月20日に第2回の祭典が県都のフォクシャニで開かれそこでミオリッツァに関わる人たちの入団が祝われ、私も招かれて、CAVALERUL "MIORITA" のディプロマ__允許状といいましょうか__や、副賞のフォークロア仮面などをいただいて来たというわけです。

 「ミオリッツァ」とは何かと言いますと、ルーマニアで一番愛唱されているバラーダ_口承叙事詩です(高樹のぶ子さんが朝日新聞に連載した長編小説「百年の預言」に全訳を引いているので覚えている人も多いでしょう。私の訳はミルチャ・エリアーデ「妖精たちの夜」の巻末解説にも載っています)。

 私がルーマニア文学を勉強しようと思って初めて買った英文対訳のルーマニア詩集にも、最初にこのバラーダが載っていました。羊飼いが、愛する牝羊(ミオリッツァ)から、自分の殺される運命 を知らされて、では羊小屋の裏に埋めてくれ、羊たちにも、母親にもこう伝えてくれと遺言する。

 おれは楽園でこの世の花嫁と結婚した、婚礼に星が一つ落ちた、花冠は太陽と月、司祭は山、参列者は森の木々、楽士は鳥たち、かがり火は満天の星と。

 この美しいバラーダは口伝えで全国の谷筋、村々に少しずつ違う形で残り、研究者によるとそのバリアントは1000ほど報告されていますから、これは世界中にもほかに例がなさそうです。

 「ミオリッツァ」騎士団がヴランチャで創設されたのは、その一番普及しているバージョンの元の形を19世紀前半に文人アレク・ルソが採集したのが、このヴランチャ県の山村ソヴェジャへの流刑中であった、という故事にちなんだものでした(だから「騎士団」とは、ヴランチャの衆もなかなかふざけていますなあ)。     

 騎士団員叙任式は、そのソヴェジャの古い要塞教会の中庭で、民謡や民族舞踊つきで祝われました。ソヴェジャはいま過疎化で人口3千人、保養地にもなっている美しい丘陵地帯です。        
 住谷が叙任されたのは、30余りの外国語訳を収録したフィリプチュク編「ミオリッツァ世界を駆ける」MIORITA STRABATE LUMEA という本に拙訳が入っているから、のようでした。

 式典では「西欧人よりも日本人の方がミオリッツァの世界を身近に理解できると思う、西欧人は自然をまず征服対象と見なして来たが、日本人にとって自然はその中で生死する共存対象だった、同じ自然観をミオリッツァに見る」とあいさつしました。                                            
 ではまた。ルーマニアは猛暑でした。体調に留意してお過ごしください。   Haru            

「ルーマニア百年の刺繍」 五十嵐ゆき

子供達に囲まれて楽しそうな五十嵐さん

”ルーマニアってとても良いところよ”と友人に言うと、必ず返ってくるのが、「ドラキュラの国だっけ?」「コマネチが生まれ国?」
そして、「首都は・・・・・ブタペストでしょ?」という言葉である。実際、数年前に、マイケル・ジャクソンがチャウシェスク元大統領の宮殿「国民の館」の前の広場で、コンサートを開催したときに、聴衆の前で呼びかけた言葉が、「・・・・・ブタペストの皆さんにお会いできてとても嬉しい」だったらしい。

 私がルーマニアを大好きになったのは、数人のルーマニア人の素晴らしい友人をもったことがきっかけだった。そしてルーマニアを知れば知るほど、彼らがホスピタリティに溢れ、陽気で明るく、礼儀正しく、人情深い、そしてロマンティックな素晴らしい民族であることがわかり、ますますルーマニアの虜になった。
 
 ライラックの美しいイースター前の5月の初旬、私は、3度目のルーマニアを訪れた。約三年振りのブカレストはますます活気付いたように見えた。7年前に初めて訪れたときには、マクドナルドの第1号店がオープンしたばかりで、誰もが簡単に行ける店ではなかったようだ、現在は至るところにある。
 
 ブカレストの変化にちょっと驚き、あの村は変っていてほしくない…と思いながら、ブカレストから車で1時間半ほどの、プロエシュティとブラショフの間くらいにある小さな村に向かった。「マグレレ」は人口500人ほどの小さな町で、店も数件しかなく、村と言った方が相応しい。私にとっては二度目の「マグレレ」滞在であった。そこは、私の友人の故郷でもある。

 まるで、心が洗われていくような…おとぎばなしを聞きながら揺りかごに揺られているような…まるでいつまでも醒めて欲しくない夢の中にいるような…そんな幸せな3日間を過ごした。

春夏は、半分裸になって夜八時くらい迄外で遊んでいる可愛い子供達。
鍵なんか掛けない、近所との信頼感…。車(マシーナ)よりもその村に相応しく堂々と土埃を立てながら通りすぎて行く荷馬車。小さいけれど、花々で飾られた小奇麗な可愛い家々。路地ですれ違うときには、必ず挨拶「Buba Ziua !こんにちは!)」と声を掛けてくれる優しいおじさん・おばさん達。そして彼らの大きな声での長い長いおしゃべり…ときにはツイカを飲みながら…。

 友人の親戚には、いつも行く度にちやほやされる。朝食から夕飯まで、そして滞在中、私が最高の思い出をつくれるように、ありったけのルーマニア人のホスピタリティ精神で、何から何まで温かく優しく包み込んでくれる。文明社会で育った私は、暑さの中で、シャワーやお風呂のない生活は耐えられないと思っていた。

 マグレレでは、シャワーやお風呂は形ばかりはあるが、毎日使うものではないようで、実際お湯も少ししかでない。それでも、私がその村で体験した多くのこと、そして出会った人々の温かい心は、自然とそれが必要ではなく、なければそれで済ませられるように感じられるくらいに、私の心を解きほぐしてくれた。

 このマグレレでの夢のような休日もあっという間、今回もいろいろな出合いがあり、マグレレを去るのが辛い…と思っていたブカレストへ戻る前日のこと…。毎日、村の路地で、すれ違っていた、近所のミッツァという老婦人が、杖をつきながら私の滞在していた家の方へ歩いてきた。皺だらけの浅黒く日焼けし、細く痩せたミッツァは、80歳近いだろうか。

 綺麗な、澄んだ青い」「ブーナ・ジーワ、ミッツァ!」というと、手に持っていたスズランの花束を渡しながら、私が村に来て嬉し かったこと、私がとても遠くから来た人であること、何もあげる物はないけれど、帰る前に私に渡しておきたいものがあることを伝えた。私への贈り物は、スズランだけではなく、もう一つあるようだ。

 でも手に は、杖の他何も持っていない。そのうち、自分の家には、亡くなったお母さんが作った100年前の刺繍 があるのだ…と、ボツボツ語り始めた。ミッツァの住んでいる家、身なりからして、ミッツァが生活には余裕がないということは、私でも察することができた。すると、ミッツァが、「村の誰にも言っちゃだめだよ…」と言いながら、古カーディガンの胸元から、広告に包まれた何かを取り出した。

 まさか…と思ったが、やはり!それは、ミッツァがついさっき自慢げに話していた「100年前の刺繍」だったのである。長方形の白地に美しい淡い色の花模様のクロスステッチの刺繍がしてある、素晴らしいテーブルセンターである。ミッツァの亡くなったお母さんの形見…ミッツァにとって一番の宝物!そんなに大切な物を私は頂くわけにはいかないと、私は首を横に振った。

 しかし、ミッツァは是非日本に持って帰って欲しいと言う。そしてまたマグレレを訪れて欲しいと。私は、涙を流しながらミッツァを抱きしめて、刺繍のことは村の誰にも言わないこと、必ずまたミッツァに会いに戻ってくることを約束した。

 帰りの飛行機の中で、今年が日本とルーマニアの国交樹立100周年であることを思い、何か、この100年前の刺繍がルーマニアから日本に住む私の手元へ渡ったことは、偶然ではない何か運命的なものを感じないわけにはいかなかった。この刺繍には、ルーマニア人の心と歴史が刻まれている。

 今回の旅行も、ミッツァを初め、多くのルーマニア人に、いろいろな大切なことを教わった。そんなルーマニアに、私はいつになったら、恩返しができるのだろうか。お世話になりっぱなしの自分を恥じながらも、今すぐにでもマグレレの人々の胸に飛び込んで行きたい気持ち一杯である。

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